君子危うきに近寄らず

こんにちは。

「みんなちがって、みんないい」
童謡詩人である金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」の最後の一節です。
以前の記事「コンプレックス」でもご紹介させて頂きましたが、その記事では、みんな何かしらのコンプレックスを抱えている、違って当たり前といった論調でした。

その考えは変わらないのですが、例えば何かの議論をしたとします。その議論でも「みんなちがって、みんないい」のですが、それを相互に理解しているのであればまだ良いのですが、そうでもない場合のほうが圧倒的に多いと思います。

議論をまとめるには、妥協や一致を見出していくこととなります。それこそ「和を以って貴しと為す」というヤツです。
それでも「ひとの話を聞かない」とか、「自分の都合や理屈ばかり」などというひとが一定数いることも事実です。
こういうひととはどう付き合っていけばいいのでしょうか?

・結論「君子危うきに近寄らず」
私は性善説を信じています。世の中、特に日本と言う国は性善説の国だと思います。しかしそうではないひと(あるいはそういう側面のあるひと)も居るのも事実。

住む世界の違うひとたちも居ます。死生観、価値観、倫理観、金銭感覚などの違い。
普通に暮らしていればそういったひとたちと交わることは少ないのかもしれませんが、ふとしたことからそういった側面をもつひとと交わることもあると思います。

「みんなちがって、みんないい」のです。なのでこれらの感覚が違って当たり前なんですが、極端に過ぎたり、それこそこちらに害が及ぶような違いであればそれは「みんないい」なんてことでは済まされなくなります。

そういったことになりそうな時は「全力で逃げる」のも必要だと思います。
また逃げられない関係性なら「必要以上は関わらない」といった対応も必要だと思います。

そんなことを言っている私自身も「めんどくさい…」と思ってしまうひとたちが一定数いらっしゃいます。
関わりは切れなくても、関わる度合いや機会は減らせます。それでストレスも減る訳です。
その上での「みんなちがって、みんないい」という心境ですかね。

私は3兄弟の末っ子なので、年上から可愛がられる傾向があるようです。なので比較的「受け身」な人験関係が多いのかも知れません。
なので「若干上から言われること」に良くも悪くも慣れています。なのでさほどストレスには感じません。
もしかしたら55歳になろうとしている今でも大病なく過ごせるのは、ストレス耐性があるからかもしれません。

話は逸れましたが、「君子危うきに近寄らず」とは「賢いひとは慎んだ行動をし、危険には近づかない」という意味です。
最大の危険は命に関わることなので、自分または家族の命を護ることは当然として、ストレスも場合によっては命に関わります。何より精神衛生上ストレスを感じるのは良くないことですよね。

「みんなちがって。みんないい」と思えること素晴らしいと思います。その上で「それでもだめだ」と思ってしまうこともあるかと思います。
そんな時は危うきに近寄らず。逃げる・避けるのも大切な生存戦略な訳です。

冒頭「和を以って貴しと為す」と書きましたが、これは聖徳太子さんが制定したとされる「十七条の憲法」の第一条にあります。制定は西暦604年です。
意味合いは「人々が協調することは重要である」そして「争わずに妥協せずに納得するまで話し合いなさい」という意味もあります。
ただ仲良くしなさいというだけではないのです。

今から1420年前に制定された日本最初の成文法の、第一条にある訳です。今でも通用する、今だからこそ見直すべき民主主義の基本の言葉だと思います。

逆に言うと、1420年前から「理解し合えないひと」は居た訳で、聖徳太子さんも「仲良くしなさい。キチンと話し合いなさい」と言ってる訳です。

テクノロジーは進歩しても、思ったより人類は進歩していないのかもしれませんね。

最後までお読みいただきありがとうございます!