自分という物語

こんにちは。

ひとはみんな「自分」という名の物語の主人公です。
その物語をどう彩っていくのか。それもそのひとの自由です。いや、そもそも彩る必要も無いのかも知れません。

物語というと、主人公の成長だったり、ドラママティックな展開やイザという時に助けられる展開もあったりするけど、現実はそううまくいくとは限りません。
バッドな展開も、同じ過ちを繰り返してしまう展開も、そのひとの選択の結果であって決して間違いではないと思います。

自分と言う名の物語。なんでも自由な物語だけど、私はその物語には2つ、心に留めることがあると思います。

1:視点
人生という名の物語は「FPV」First Person View(ファーストパーソンビュー)「一人称視点」になります。当たり前なのですが自分の視点からしか世の中が見えないのです。
それで十分なのですが、ひとには神さまから授かった「想像力」があります。他人から見た自分、自分を俯瞰してみたら、など一人称視点ではわからないことも「想像」出来るのです。
他の人の目を気にするという意味ではなく、一人称視点からちょっと眼鏡を外して自分を見ることが出来る。そして他の人の視点も「想像」出来るのです。
客観視と言っても良いと思います。自分自身を客観視する。自分の物語を客観視する。そういった「視点」は大切だと思います。

2:誰かのためであること
ひとは自分のための行動はまぁ普通に出来ます。お腹が減ったらごはんを食べる。当たり前のことですよね。
しかし、ひとのためにごはんを作るとなるともっと力が湧いてくるのです。
「御馳走」という言葉は、昔は冷蔵庫も無くスーパーマーケットも無かったので食材を揃えるために文字通り「走り回った」ことから出来た言葉です。だから食事を頂いた後には「ご馳走様でした」と言うのです。いい言葉ですよね。
ひとをもてなすため、美味しいものを食べてもらうために走り回るのです。自分だけの食事だったらそれほど走りまわらないと思います。
なので世のお母さんたちには尊敬の念を覚えます!

そう、誰かのためとはそういうことで、家族のため、友人のため、「家族も友人もいない」のであれば見知らぬ誰かのためでいい。その行動が尊いことだと思います。

法律で罰則のあること、つまり悪いことと言われることは「誰かのため」ではないことなのです。例えばひとのものを盗んだらそれは誰のためでもなく自分のためにしかならない。(いや、自分のためにもなってないのだけど)
自分という「視点」だけでしか見えていないということですね。

この2つを心に留めておけば、ひとという物語には正解も間違いも、成功も失敗も無く、ただただ「今」起きることを楽しんでいく物語。
その「視点」で今日これから何が起こるのか、「誰かのためになる」一日になるのか「想像」してみてください。ワクワクしてきません?

最後までお読みいただきありがとうございました!