こんにちは。
ひとは永遠に解りあえないのか?哲学的・宗教的なお話になりますが少々お付き合いください。
簡潔に言えば少々嫌なことがありました。腹も立つけどそれ以上に「どうしてご理解頂けないのか?」という感情が自分の中に出てきました。
しかしこれを相手側から見ると、きっと相手も「どうして理解してくれないのだろう」となっている部分が少なからずあると思います。
何処までいっても平行線のような気がして「これ以上考えることも無駄」という結論に達したのですが、整理するためにも少しだけ考えてみます。
・ひとは解りあえるのか?
以前の記事にも書きましたが、私はいずれひとは解りあえると考えています。しかし本当の意味というか完全に解りあえるとは究極的には「同一化」するしかないと思います。物質的にも全く同じになるのです。そうすれば同じなので解りあえますよね。
しかし完全に「同一化」することは不可能なのです。そりゃそうですよね、ひとはそれぞれ個別に独立しているからこそひとなのですから。
しかしながら今世問わず観念的な世界も含めてひとが「同一化」するところがあったとしたら…
以前に読んだ田坂広志さんの本「死は存在しないー最先端量子科学が示す新たな仮説」
という本に「ゼロポイント・フィールド」という仮説がありました。
簡単には要約出来ませんが、「ゼロポイント・フィールド」とはざっくりいうと、
・この宇宙に普遍的に存在する『量子真空』の中に『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ばれる場がある。
・そこにはこの宇宙のすべての出来事のすべての情報が『波動情報』として『ホログラム原理』で『記録』されている。
という仮説です。
ひとは死しても全ての情報が「ゼロポイント・フィールド」に記録されている。
なので死は存在しないと言える、と少々雑ですがまとめてみました。
この本は私にとって一種の「答え合わせ」が出来た本です。お勧めします!
この仮説で言うと「ゼロポイント・フィールド」という場ではひとは完全に解りあえると思います。
乱暴に言えば「今世を辞して解りあえる」と言えるのかも知れません。
・では今世ではどうしていくべきなのか?
冒頭に結論で「これ以上考えることも無駄」と書きました。きっと解りあえるという点においては今世では無理なのだから無駄なのでしょう。
しかしそれではいつまで経っても世の中良くはなっていきません。
「違うひとたちをまとめる」ために生み出されたのが組織であり大なるは国家なのでしょう。その国家ですら国家内でも国家同士でも上手くいっていないのですから、仕組みではどうにかなる問題ではないですね。
考えてみましたが確たる方法は無いと思います。その上で強いていうなら「見留める」ことだと思います。
「認め」なくて良いのです。「見て」、「心に留める」と読んで字のごとく、「ありのままを無条件に認める」ことが「見留める」こと。
理解も判断も区別も差別もする必要はありません。ただ「ありのままを無条件に認める」だけです。
何処か瞑想にも似た境地ですね。(因みにゼロポイント・フィールドに近づくには瞑想も良いとされています)
そう考えて、ああ、そういうことなのね!とも繋がった読書体験ではありました。
ここのところ、今日の記事のように自己満足スピ系(笑)の話題が多いので私も病んでいるのかもしれません(笑)
中庸に、そして「見留める」。
行うのは難しいところもあろうかと思いますが、実はシンプルでいいのかと思います。
最後までお読み頂きありがとうございます!