時間は資産・ひとは解りあえる?

こんにちは。

土曜日ですが息子の学校で部活の練習試合がありました。いつもは練習試合はあまり観に行かないのですが時間があったのでかみさんと観に行きました。みんな頑張りました!
勝ち負けは兎も角感じたことが2つありました。

「時間は資産」
「人生いつからでもやり直しがきく」と言われていますし私もそう思います。
また一方で当然ながら私より息子のほうが残された時間は多いです。

「時間」というものは平等に流れていますが、例えば高速道路で行先までの時間を短縮するという意味では時間は金銭に替えられます。同じ意味で作業を分担したり外注したりすることも時間を金銭に替えることでしょう。

しかし物理的な時間は今のところ平等に流れていきます。年齢を重ねると知恵もつきます。若いうちは知恵も知識もどんどんつけるべきでしょう。そしてその時間が彼らにはあるのです。

そういう意味での資産をより多く持っている若年層に羨望を覚えることもありますが、その資産を如何に生かして行くのか、そもそもそういう視点で考えられるようになるのか、おっさんの説教臭くなってきましたが自戒も込めて、願わくば時間と言う資産を大切に使っていって欲しいものです。

「ひとは解りあえない」だからこそ…
否定的な意味ではなく、文字通りの意味です。
究極的にはひとはいずれ解りあえるようになると私は思っています。でもそれはいつなのか?今世では可能なのか?それこそ「解りません」。
だからこそ「見留める」という視点が大切だと思います。
先日の記事でも書きましたが、ありのままを無条件に認めるという視点です。フランクに言えば「そういうこともあるよね」といった感じでしょうか。

ひとのことや話を全て理解して咀嚼して血肉にする必要はないのかもしれません。そもそも無理でしょう。
でも解ろうとすること、その行為自体は止めてはいけないと思います。「結局解りあえないのだけど、解ろうとする努力はするべき」だと思います。
そして相容れない考えで結局解らなくても「そういうこと(考え)もあるよね」と「見留める」ことはするべきだと思います。

だんだん禅問答じみてきましたが、ひとは感情の生き物であるので感情的になってしまうこともあろうかと思いますが、深呼吸して「そういうこともあるよね」って考える。
中庸であるということはそういうことだと思いますし、そうありたい。

中学生と私からみたら子どもとも言える顧問の先生たちを見ててそんなことを考えていました。