「みとめる」ということ

こんにちは。

この週末色々なことがありブログネタに困りませんでした(笑)
いや笑えないようなこともありましたが、今日はひとつだけ。

〇みとめるということ
ひとはみなが違って当たり前です。意見も違えば価値観も違うでしょう。そこで意見をぶつけるのも必要かもしれません。
しかし何故「みとめる」ことが出来ないのでしょうか?いやみんながそうでないという訳ではなく、また「みとめる」ふところの深さというか深度も違います。
「みとめる」とは、
1:「見留める」
判断や解釈を脇におき、ありのままを無条件に認める。
2:「認める」
目にとめる。有ることが確かだと見て取る。見て判断する。
と2つの意味があります。この記事で「みとめる」は1の「見留める」のことが多いと思います。

〇ありのままを無条件に認めるということ。
ひとが発する情報にはバイアスが掛かっています。これはひとそれぞれ違うのだから仕方ないことです。
しかしそのバイアス込みで「ありのままを無条件で認める」ことはなかなか出来ていない。
またバイアスがかかるということは、起こった事象に対しても解釈を抜きにして「ありのままを無条件で認める」ことが出来ていないということです。

ひとは感情の生き物です。だから仕方ないところはありますが、それにしても「ありのままを無条件で認める」ということを心がけるべきだと思います。

ひとがかけるバイアスは、そのひとの感情や価値観、置かれている立場や状況などさまざまな要因があると思いますが一番は「経験」だと思います。
「今ままでそうだったから今回もそうだろう」と判断しがちです。それは往々にして間違っていないのですが、時代や世代で変わってくる・変わってきているのです。

以前の記事で「風の時代」に変わったと取り上げました。コロナ禍を経て実生活でも顕著な変化があります。
またLGBTQやSDGsといった新しい(言語化されまとめられた概念として)考え方や価値観が市民権を得てきています。
こういったことを単に否定・反発するのではなく「見留める」=「ありのままを無条件で認める」ということが今まさに大切なんだと思います。

これに関してはもっと深堀りして記事を書こうと思いますが、「なんで判らないんだろう」と思うことすら「見留めてない」のかもしれません。
とかくひとの世はままならないものなのかもしれませんね。と思った週末でした。

最後までお読み頂きありがとうございます!