命日

こんにちは。

今日は私が所属していた代理店主が亡くなってからひと月めの月命日。そして高校の時の同級生が突然死してから20年目の命日。奇しくも命日が重なった日です。
更に高校卒業してすぐの5月2日に、これも高校の同級生が若くして亡くなった命日でもあります。

代理店主は満63歳。同級生は35歳、卒業後に亡くなった同級生に至っては18歳…早すぎます。

今日で所属していた代理店の後片づけもあらかた終了して、紙ごみと細々したものを搬出して、退去の立会いと公共料金の精算をすれば、全て終了。あっけないものです…

「虎は死して皮を残し、ひとは死して名を遺す」という諺があります。読んだ通りの意味なのですが、
荒井的解釈は「ひとは名前しか残せない。だがそれが良い」

・モノを残すこともあるよね
愛用の遺品や、家を残すということはありますよね。そこにはもしかしたらそのひとの「想い」が宿ることもあるかもしれません。
しかし現世で普通に考えると、モノはモノでしかありません。しかしそこに「〇〇さんが使っていた」などと現世に残されたひとの「想い」が乗っかる訳です。
「〇〇さん」、つまり「名前」が残る訳です。

また形に残らない何かを成し遂げたとしても「〇〇さんがやったんだよ」、つまりこれも「名前」が残るのです。

・裸一貫で「帰る」
そしてひとは産まれてくるときと、亡くなるときには身ひとつなのです。一緒に埋葬したり火葬したりする気持ちを否定する訳ではなく、文字通り「裸一貫で帰る」訳です。
これまた荒井的解釈では「現世のことが現世で」という意味だと捉えています。

つまり物理的・物質的なことは現世で終了なのです。
そしてあの世や来世があると信じる荒井は、精神や魂、縁といった目に見えないけれど強い繋がりがひたすら紡がれていくのだと思います

以前の記事「感謝、ご縁」でも書きましたが、「今世のことは今世」。でも何かしらの力や法則があり、あの世と来世を現世と繋いでいるのだと想います。

生まれ変わりや来世、あの世があると想っていたほうが、楽しみもあるしなんだかお得に感じますよね(笑)

今まで出会ったひとの中で、現世でもきっと永遠に会わないであろうひとたちは沢山いると思います。
何が違うのかと言うと、生きているひとは探し出して物理的に会うことが出来るだけで、暴言かもしれないけれど亡くなったひとと大して変わりはないのかもしれません。
しかしそこには何かしらのご縁があると考えれば…

「いつかまた逢いましょう」

最後までお読みいただきありがとうございます!