認識の差

こんにちは。

83年前の1941年12月8日、マレー作戦と真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争が始まってしまいました。
昨年の今日の記事「12月8日」では、知識と経験の違い、見知った戦争と体験した戦争では全くちがう的なお話をさせて頂きました。

ここからのお話は不謹慎かもしれませんし、「何言ってんだコイツ」的なお話になるかもしれませんので悪しからず。
個人的には「世界」とは幾通りもあると考えています。異世界や平行世界などコミックやSFの設定ではお馴染みですが、実際にはないと言い切れるのでしょうか?

それぞれが認識している世界が他のひとが認識している世界と全く共通であること証明するのは難しいかもしれません。またひとそれぞれが認識する世界は当たり前なんですが、その認識するひとの主観がどうしても入り込みます。
ということは、共有はしているかもしれないけれど全て全く同じということは無いと思います。

個人の認識の差を平行世界や「もしも」の世界と同一視するのは確かにどうかと思います。
しかしこのお話をする理由として、太平洋戦争が開戦してしまったことに荒井個人的には合理性が足りていないように思えるからです。
簡単に言えば「アメリカに勝てるわけがないと当時も認識されていたようなんだけど、何で戦争が始まってしまったのか?」

後年を生きている私ですから後からいくらでも言えるのでそう思うところもあるでしょう。また当時を生きていないので、知識でしか知らない当時の空気感などもあろうかと思います。

それでも「太平洋戦争が始まってしまったことの歴史観は、ちょっとズレている」ような気がしてならないのです。

このちょっとした違和感の正体は自分でも分かっています。前述のひとの認識の差、または価値観の差なんだと思います。
私は基本的に争いごとが嫌いです。なので「どうして戦争をすることになってしまったのか?」と考えがち。
自分の想いが史実とは食い違っているのでそう思うのでしょう。

と、ここまで書いていて思ったのですが、現在進行形のウクライナ紛争や世界の争いごとは、「認識の差」ということで始まっていることが多く、ひとはそれぞれが違ってるということの理解が足りていないからかもしれません。
ということは私が感じている違和感というのも、私自身がひとが違って当たり前ということを本当の意味で理解しきれていないからなのかもしれません。

だんだんと思考の袋小路にハマっている気もしますが(苦笑)、戦争反対はきっと世界共通語であると思います。
それでも始まってしまったことで犠牲になられた方々へ哀悼の意を表します。

そしてその時代があったからこそ今がある。戦前・戦中・戦後とご苦労されてきた方々にお礼を申し上げます。

 

なんだか酔っ払いの落書きみたいになってしまった…(苦笑)
最後までお読みいただきありがとうございます!