健全な精神は健全な肉体に宿る と願う

こんにちは。

昨日の記事で「健全な精神は健全な肉体に宿る」という名言をご紹介しました。
一般的には「身体を健康に保っておけば、おのずと精神も健康になる」という意味で捉えられていると思います。
私の昨日の記事もそんな趣旨で書きましたが、どうやら誤解があるようです。どういうことなのでしょう?

・ユウェナリスさんの言葉
デキムス・ユニウス・ユウェナリスさんという(トップの絵のかた)古代ローマ時代の風刺詩人の著作「風刺詩集」に登場した一節です。詩人であり弁護士であるユウェナリスさんの「風刺詩集」はその名の通り社会を痛烈に批判する内容だったようです。

ラテン語で書かれた原文を日本語に訳すと以下のようになります。

…健全な精神が健全な体のなかにありますように、
と願われるべきなのだ。
強い心を、死を怖れない心を願え。
死の間際にあっても後悔のない心を。
どんな苦しみにも折れない心を。
怒りにも、欲望にも打ち克てる心を。
欲望の限りを尽くしたサルダナパール王よりも、
12の試練を乗り越えたヘラクレスを良しとする心を。

君たちの中にもそのような良い心があるのだ。
そしてそれは、必ずやよい人生へと導いてくれるだろう

「健全な精神は健全な肉体に宿る」という断定ではなく、
「健全な精神が健全な肉体に宿りますように」という願望になっているのです。
つまりそれだけ現実はそうでないことが多いと嘆き、風刺しているのです。現代でも同じですよね…

昨日の記事では身体さまを整えることが先決のように書きました。
それはそれで間違いないと思っています。ただ身体と精神は両輪ということだと思います。
何故「健全な精神は健全な肉体に宿る」という願望から、断定に変わっていったのでしょう?

・切り取りとつけ足し
原文のラテン語では「mens sana in corpore sano」それを日本に広めたのがジョージ・アダムス・リーランドさんというアメリカの医師で、日本には政府の招聘により明治11年に来日しました。
日本の学校の体操を指導した方で、リーランドさんがSound mind dwells in sound body」(健全な精神は健全な肉体に宿る(宿るをつけ足した)」と、原文を切り取りつけ足して紹介したのです。

それから時代が下って、ナチスドイツなどがスローガンとして、身体を鍛えることでのみ健全な精神を得られるような恣意的な使い方をしたため、世界的にも間違った使われ方をしているようです。

ただ使いかたによっては身体障碍者への差別用語にもなりかねません。なので現代では身体と精神の密接な関係、バランスを表す言葉として使われています。

そうなんですよね。身体と精神は両輪。密接に関係しているのでどちらかの状態が良くなくても「健全」とは言えないのかもしれません。

ああ、やっと「精神」について書けると思ったけど、長くなるのでまた次回に(どこまで引っ張る (笑)

最後までお読みいただきありがとうございます!