こんにちは。
以前の記事で登場した小学校5年生と6年生の時担任の先生であるM先生の思い出を少々。
女性の先生で、私が小学校を卒業する年に定年を迎える妙齢の先生。
太平洋戦争時代から教鞭を取っていたそうで、当時も私の母校である「千葉市立蘇我小学校」に勤務されていたそうです。
私が6年生の年である1981年。終戦から36年経っていましたが語り部と言えるかたがたがまだまだ現役。
M先生もその一人で当時のお話をよくしてくれました。
・授業で潮干狩り?
蘇我小学校のある千葉県千葉市中央区蘇我町は、太平洋戦争当時には埋め立て地として日立航空機千葉工場があったようです。
しかし埋立地は一部分であり、学校からは海がすぐの場所。
「今昔マップ」さんから拝借させて頂きました。
右側の地図が昭和19年当時の地図です。で左側が現在の地図。左側地図の真ん中上方の黒〇の場所に蘇我小学校はあります。
左の地図にあてはめて見ると海岸まですぐの場所に位置していますね。潮干狩りも出来る訳だ。
・兵隊さんのお見送り
蘇我駅至近なので子どもたちを連れて出征される兵隊さんたちを見送りに行ったそうです。
・森で魚とり?
現在は町名に名残がある森があったそうです。千葉市中央区鵜の森町というところで、小学校から内房線と外房線を渡ったらすぐのところです。
この森には海が近いから「鵜」が沢山すみついていて夕方になると巣に戻ってきます。魚を捕まえて戻ってくるのですが、中には魚を落としてしまう鵜もいるようで、森に入って行くと結構な数の魚が落ちていたそうです。
まだ綺麗な東京湾でしかもその日に捕まえた魚なので十分食べることが出来たそうです。天然の鵜飼いですか(笑)
ただ怖いお話もあって、太平洋戦争当時の空襲(恐らく昭和20年7月7日の七夕空襲と思われます)の時には鵜が拾ってきたのか遺体の一部も落ちていたりしたそうです…
・職員室に機銃掃射
千葉空襲は2回あったそうで、前述の昭和20年7月7日の空襲は千葉市街地を標的にした空襲でした。その前の昭和20年6月10日にも空襲があったようでこれは日立航空機千葉工場を標的にした空襲でした。
恐らくその空襲だと思われますが、小学校の職員室に機銃掃射の弾があたり火事になったそうです。
幸いすぐに消し止められたようですし、負傷者が出たとかは聞いていないのですが子ども心に「戦争って怖い」と感じた記憶があります。
千葉空襲では1600人以上の死者と4万人を超える被災者が出たと記録されています。改めてご冥福をお祈りします。
ご存命であればきっと90歳を超えていることでしょう。
私の世代は太平洋戦争当時の大人たちがまだまだ第一線にいらっしゃって直接お話を伺うことが出来たのです。ありがたいことです。
日本は来年で戦後80年を迎えます。
その間、一度も戦争を経験していないと言われています。これは誇るべきことなのでしょうけど、相変わらず世界の何処かで現在進行形で戦争や紛争は起きています。
自分自身もそいうなんですが、自分の子どもには経験させたくないのは言うまでもないですよね。
その為には「知る」ことが先ずは一番だと思います。私は直接経験していないのですが、経験されたかたがたからのお話を次代に話していくこと、つないでいくことが大切なんだと思います。
M先生、屁理屈ばかりで色々と面倒な児童でしたが(苦笑)、改めてありがとうございました。
最後までお読み頂きありがとうございます!