チャップリンと五・一五事件

こんにちは。
(※トップ写真はWikipediaから)

1889年4月16日、喜劇王チャールズ・チャップリンさんが産まれた日です。
言わずと知れたチャップリンさん。解説は必要ないかと思いますが、歴史の「IF」が働いていたら日本で暗殺されていたかもしれないってご存知ですか?

その前にチャップリンさんには運転手から秘書になり絶大な信頼を得た日本人がいます。
「高野虎一(こうのとらいち)」さんというかたで、1885年広島産まれ。1900年の15歳の時に移民として単身アメリカに渡ります。
1916年、高野さん31歳の時にチャップリンさんの求人に応募。運転手として雇われます。日本人ならではの気遣いとチャップリンさんの無理難題にも丁寧に応えて5年後には秘書となります。
親日家と言われるチャップリンさん。高野さんの影響が大きいと思います。(一時期チャップリンさんの周りの使用人は日本人か日系人だけで占められていたほどです)

そんなチャップリンさんが日本を初めて訪れることになったのが1932年5月14日。神戸港に到着しました。
当時の日本国内は軍部が台頭してきて、アメリカを仮想敵国としていました。そんな情勢から高野さんは来日に反対していたともされています。
そして実際五・一五事件を起こす将校たちはチャップリンさんを暗殺することにより、対米戦争の切っ掛けにしようと考えていたようです。

日本到着後一行は汽車で東京に向かいます。14日中に東京に到着して宿泊先に向かう時に、チャップリンさんは秘書の高野さんに頼まれて皇居に遥拝します。これは当時日本の軍部への印象を良くするための高野さんの策でした。
翌日5月15日、首相官邸で歓迎会に出席予定でしたが、落ち着かない高野さんを見てチャップリンさんは何かを感じたのでしょう。歓迎会をキャンセルして犬養健さん(犬養首相の息子さん)を伴って両国国技館に相撲見物に出かけました。
そうです、正にその時首相官邸では青年将校が犬養首相を暗殺し、五・一五事件が発生していたのです。

歴史に「もし」はありませんがひとつ間違えば当時既に世界的名声を得ていた喜劇王が日本で最後を迎える可能性があったのですね。ホント紙一重です。

その高野さんも数年後には当時のチャップリン夫人と衝突して辞めたとされています。退職にあたりチャップリンさんは莫大な退職金や権利を譲渡しました。
高野さんはその後第二次世界大戦中にアメリカで強制収容所に収容され、戦後しばらくしてから出所。その後はアメリカ市民権を失ったひとたちの支援、日本人移民の永住権や国籍取得の支援を行い、晩年は日本に来て1971年に永眠しました。

歴史には沢山の功罪、沢山の物語があると思いました。そして我々もそんな歴史を現在進行形で紡いでいるのですね。

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