愛してるの反対は無関心

こんにちは。

PTAの役員をさせて頂いているので必然的に先生方ともお話する機会が増えるのですが、今日、旧知の先生とお話をしていての気付きで一席。

不登校の児童・生徒が全国で30万人いるようです。「学校行ってない」という子どもの話は結構聞きます。
で、前記の先生が言うには「今の教育では無理に学校に来るような指導はあまりしていない。児童(生徒)は行きたくなければ行かなくていいという空気」だそうです。

行きたくなければ行かなくていいというのには私も賛成でしたが、そうやって「いいんだよ」と言われて育った子どもが社会に出たときにどうなるのか?
と言うか既にそういった世代が社会に出ている訳です。そして今は「売り手市場」。別の知人で外食産業の本部に勤務している人の話では「今は如何に辞めさせないか。という時代なんですよ」と言われました。

こういった問題、言ってしまえば特に処方箋も無いように思えて、結局のところ少子化による「歪な人口ピラミッド」の弊害な気もします。
しかしその少子化も含めて時代が変わったと捉えるのであれば、これからどのようにしていくべきなのでしょう?

世間は自由民主党の総裁選の話題で盛り上がっています。それこそ彼ら彼女らに上記の問題について聞いてみたいものですが、自民党員でもない私には手も出せない選挙です。
「国が」「政治が」といっても始まらないので、我々に出来ることは何か?少し考えてみます。

というかいきなり結論なんですが、「手の届く範囲で、ちゃんと話をする」ということだと思います。
当ブログでは「手の届く範囲で」というフレーズをよく使います。それは個人個人がそれぞれ「手の届く範囲」でベストを尽くすという意味と、「手の届かない範囲まではやれないし、やったとしても逆効果になるかもしれない」という意味です。
具体的にも自分の家族、職場、学校、所属するコミュニティといったところ。それでも範囲はそれなりにありますが「手の届く範囲」とはそういった範囲です。

その範囲で「ちゃんと話をする」というのは、「和を以って貴しとなす」という意味です。「和」とは「話し合い、議論をすることが大切」という意味です。何も仲良くするだけの「和」ではありません。

ひとは主に話すことでコミュニケーションをとります。そしてそれぞれが違う個人である以上、全く同じ考えはありえません。であれば話し合う、議論するということは必然だと思います。
輪を乱さないようにするだけではなく、ちゃんと話をする。ちゃんと話を聴く。その積み重ねで信頼関係も出来てくるのです。

冒頭の不登校の問題であれば、キチンと子どもと保護者でお話をする。親子関係だからこそ話にくかったり、感情的になったりもするでしょう。タイミングもあるかもですがそれでもちゃんと話をする。ちゃんと話を聴く。
私自身もうちの息子とちゃんと話をしてちゃんと話を聴くことが出来ているかと言われれば足りていないかもしれません。
何も膝を突き合わせてお話するということだけではありません。「おはよう」「おやすみ」「いただきます」「ただいま」「おかえり」こういった挨拶の積み重ねも大切だと思います。

「愛してるの反対語は無関心」と言われます。過度の干渉もどうかと思いますが、関心を持って接していけば少しずつでも改善するかもしれません。
そしてそもそも親子も「他人」な訳です。解りあえなくて当たり前。そう考えれば少しは気が楽になりませんか?

いうほど私も出来ている訳ではありませんが、少しでも子どもに関心を持って接していきたいです。

最後までお読み頂きありがとうございます!