こんにちは。
ブログ記事をいつもタイトルを先に決めて書いて、書いてるうちに脱線してタイトルを修正する荒井です。きっと言いたいことがありすぎるのでしょう(笑)
タイトルの「聖人君子」とは、徳が高く人格高潔で他人の模範となるようなひとのことです。「聖人」も「君子」も同じような意味(強いていうなら「聖人」は宗教的、「君子」は紳士的とでも言いましょうか)の言葉を重ねているんですね。
因みにたまにある誤用で「聖人君主」と表記しているのを見かけます。「君主」とは世襲で領地などを治めるひとのことで一般的には「王様」や「領主」のことです。「君主」が「聖人」の場合は「聖人君主」と言っていいのかもしれないけど、現代で「君主」はごく稀なひとになるので、高潔さや徳が高いひとの表現としてはやっぱり「聖人君子」がしっくりきます。
性善説の私は「聖人君子」は居ると思いますし、実際尊敬できる方々も見てきました。私自身もそうありたいとは思いますが、煩悩からまだまだ逃れられません(笑)
現世を魂の修練場と考えるならば、「聖人君子」を志すことは正しいことなのだろうと思います。
とは言えこの世は色んな価値観のひとたちで溢れかえっています。
昨日久しぶりに「外飲み」してきました。気心の知れたかたがたばかりでしたし、久しぶりの大物のかたもいらっしゃってとっても楽しいひとときでした。
波長というか、ある部分では近しい価値観だと思いますので楽しいひとときになるのでしょう。それでも意見の違いは当然あるものです。
でも、全く「あわない」ひともいるのも事実。2:6:2の法則の通り、ひとには2味方がいるとして、6の中庸、2の敵がいると言われています。
敵とまで言わなくても「あわない」ひとがいます。勿論そういったかたがたは「気にしない」のが一番だと思いますが、コミュニティにお互い所属しているとどうしても関わりが出来てしまうこともあります。
そういったかたがたに共通しているのが私の場合「話を聴かない」かたがたです。
逆に私がひとの話をよく聴くかと言われれば務めて聴くようにはしていますが、前述の通り私も「話したがり」なのでついつい話過ぎるきらいもあります。
しかしいつも疑問に思うのは「何故ひとの話を聴けないのだろう」ということです。
私自身も話過ぎても、聴くようには務めてます。そして聴くことによって得るものが大きいと感じています。だから聴きます。
しかしながら聴かない、聴いてもご理解頂けないかたがたが確実にいます。価値観の違いだけでは済まないように思います。
ひとは「普通」や「みんな」という言葉で平準化されたような意見を言ったりもします。「普通はお話聴くよね」とか「みんなお話聴いてくれます」とかですね。
そうなんですね、平準化というか一般的というか、公約数的な発想って実は幻想なのかもしれないとも思います。国が変われば常識も変わります。日本国内でもある話です。
「個の時代」と言われるようになってきてますが、「個」とはみんな違ってる訳であり、つきつめると「普通」という考え方すら時代遅れになるのかもしれません。
本当の意味での「多様化」のヒントになるのかな?
と、タイトル決めて書き始めて、ラストはちょっと違うような内容になってしまいましたがいつものことです(笑)
最後までお読み頂きありがとうございます!